「お世辞にも孝行息子とは呼べない人間でした。」
息子(喪主様)はそう切り出した。
とある70代女性の葬儀でのことだ。
若い頃から親に心配ばかりかけ、ろくに親と向き合うことすらしなかった息子。
そんな親不孝者の息子が親の病気をきっかけに母親と向き合う決心をした。
しかしその決断は、あまりにも遅すぎた。
救急搬送された病院で下された非常な宣告は、持って余命1ヶ月というものだった。
本人に伝えるにはあまりにも酷すぎる。
こんな自分にできることはないものか。。。
思い悩んだ息子が選んだ方法は、毎日母親の病室に花を届けるというものだった。
来る日も来る日も病室を訪れては、本人に病状の深刻さを告げるようなもの。
花の水を替える、枯れた花を新しいものに取り替える、そんな口実でなら毎日病室を訪れても、不自然ではないだろう。
そう考えたのだ。
息子が入院初日選んだ花は「トルコキキョウ」
西洋での花言葉は、「感謝」と「親愛」
口に出すことの出来ない自らの思いを、せめて花に託そうとしたのだ。
しかし、時に運命とは残酷なものだ。
母親と向き合うわずかな時間すら、神様は与えては下さらなかった。
一度も水を替えることなく、母親は入院翌日に帰らぬ人となった。
息子の心の内をおもんばかるような、今にも泣きだしそうな空模様の下で、しめやかに葬儀が執り行われた。
そんな話を聞いていたので、お別れの花は、トルコキキョウとピンクのカーネーションをたくさん用意した。
息子の手向ける色とりどりのトルコキキョウやカーネーションに囲まれる母親の亡骸は、心なしかどこか微笑んでいるように見えた。
残念ながら生きているうちに自らの口で伝えることは出来なかったかも知れない。
だがしかし、想いは確かに母親には伝わったに違いない。
「産んでくれて有難う!」
涙でぐちゃぐちゃになった息子の言葉を背に、母親は火葬炉の奥へと消えていった。。。
人の死は何を大切なものを我々に気付かせくれる。
今からでもけっして遅くはない。
人は大きな悲しみを背負うことで、他人の痛みを知ることが出来る。故に人に優しく出来るのだ。
命の大切さとともに、母親がその身をもって教えてくれたこの最後にして最大の教えを胸に、これからの1日1日を大切に生きていってもらいたい。
そう願わずにはいられない。
人は2度死ぬ。
1度目は肉体の死。
2度目は人々の記憶から消え去った時だ。
お母さんだったら、こんな時どうするんだろうなぁ?どう思うんだろうなぁ?こんなことしたいって言ってたなぁ。
残された人間がそう思うこと、感じること、行動すること、それが故人が第2の人生を生きていくということだ。
まだ、間に合う。故人の第2の人生を豊かなものにしてあげてほしい。
そんな私の言葉を息子さんは静かに聞いていた。
故人様に心よりの哀悼の意を表して
合掌