私の家は当時としては珍しく、両親が共働きだった。
母親も第一線でバリバリ働く女性で、稼ぎも一流だったが、専業主
そんな事情もあり、私は半分祖父に育てられた。
大好きだった祖父が亡くなったのは、私が小学生の時だった。
棺の中に横たわる祖父の姿は、ぞっとするほど青白く、不気味で、
弔問に訪れる知らない大人たちと、知らない顔の祖父、斎場の張り
目から溢れんばかりの涙を溜め、青白い顔でゼェゼェと息をする私

まさに悪魔の一言だった。
まだまだ悲しみをグッとこらえて、遺族は気丈に振る舞うのが日本
そうした背景を鑑みれば、特段的外れな発言でもないし、言った本
悲しみを吐き出す場を失った私は、式が終わるまでの時間、必死で
それは想像を絶するほどの苦痛を私に強いた。
永遠に続くと思われた時間もようやく過ぎ去り、通夜振る舞いが始
大人たちが赤ら顔になり、子供の存在など忘れた頃、手持ち無沙汰
中に人の気配を感じて、慌てて引き返そうとすると、その人物が優

その声に促され、恐る恐る式場の中に足を踏み入れる。
手招きされるままに棺の前に進むと、その人はゆっくりと棺の蓋を

その言葉を聞いて、祖父との思い出が一瞬にして頭の中を駆け巡る
泣いたらダメだ!必死に歯をくいしばる私の姿を見て、その人が微

その言葉に涙がせきを切ったように溢れ出す。
もう私には溢れ出す涙を止める術は持ち合わせていなかった。

その人はそう言いながら、泣きじゃくる私の背中をずっとさすって
そうしてしばらく泣いていただろうか。
泣き疲れて涙でぐしゃぐしゃの私の顔をハンカチで優しく拭いてく
その言葉に救われた。
私の悲しみが100%だとしたら、解放されたのはせいぜい5%くら
だが私にとって、それはとてつもなく大きな意味を持つ5%だった
告別式は幼いなりにしっかりと祖父の死と向き合い、自分なりに納
釈迦は【生きることは苦しみだ】と説く。
愛別離苦・・・愛する者との別れは、格別に辛いものだ。
しかしどんなに近しい人を亡くして、深い悲しみを背負ったとしても、我
これがまたたまらなく辛い。
そんな中、悲しみに耐えて、気丈に振る舞う日本人特有の美徳を否定するつも
それが自らが明日から前を向いて生きていくにあたって、最良の道
でももし大切な人の死に心が壊れそうになりながらも、じっと耐え
深い悲しみに耐えきれず、人目もはばからずに泣き崩れている遺族
無くした存在の大きさに絶望して、小部屋でひとり、想いにふける
彼らは皆、一様にまた明日らか、前を向いて生きていかなければな