墓石や地蔵を破壊して、城の石垣に再利用した例が発見され、物議をかもしだしている。
「石が貴重だった時代とはいえ、現代の感覚では考えられない。」と学芸員たちは首をかしげるが、古今東西、洋の東西を問わず、先人の作った墓や遺跡を壊して、自分の建造物の材料を調達するのは、さほど珍しいことではない。
現代人に比べて宗教や祖先、迷信を極めて重んじるが、一方で現代人に比べてはるかに割り切った感情も持ち合わせていた。
これが先人の本当の死生観なのだろう。
墓石壊して石垣に 兵庫城で“罰当たり”築城術
「墓石(はかいし)を破壊した」-。なんてことがあったら、科学やITの普及で迷信や伝承が廃れつつある現代でも、しゃれでは済まされない。
一言で表すならば「罰当たり」。死者への弔い、そして祖先崇拝の思想が根付いている証しなのだろう。だが、当のご先祖さまが、墓石をぞんざいに扱っていた形跡がJR兵庫駅南東の「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区)で見つかった。
「ようこんなひどいことを…」 西国進出を狙う織田信長の指示で安土桃山時代に建てられたとされる兵庫城。今年1月ごろに見つかった二重の石垣(全長約640メートル)の発掘調査で、神戸市教育委員会の学芸員が漏らした。
次々に姿を現したのは、分解したり切断したりした石塔。現代の墓石に相当するといい、付近の墓地に室町時代~安土桃山時代ごろ、地元の領主らが設置したとみられる。
市教委によると、総数は全体の1割弱、約1200点に上った。その多数を占める五輪塔は、土台の直方体を石垣の角などにあてがい、屋根形の部材は隙間に、丸みを帯びた上部は内側から支える「裏込め」に使う。全身を4分割された地蔵や、墓地を囲む石柱なども石垣に組み込まれているのが確認された。
「石材が貴重だった時代とはいえ、現代の感覚では考えられない」と首をかしげる学芸員。発見された五輪塔のほとんどが上部を切断されていることから、「後ろめたさがあり、魂を抜こうとした跡かも」と推測する。
一方、元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川(さがわ)真一研究部長(仏教考古学)は、お盆の墓参りなど現代に根付く祖先崇拝が広く浸透したのは檀家(だんか)制度ができ、人と家、墓の結び付きが強まった江戸時代以降とみる。
兵庫津遺跡では石垣のほか、周辺の町屋群の礎石や井戸などに幅広く転用されていたことも判明。「領地を制圧した見せしめに破壊したという見方もあるが、墓石に対する宗教的な意識が希薄で、墓地を石材の供給源として捉えていた可能性が高い」と指摘する。
安土桃山時代の墓石の転用例は、姫路城(姫路市)のほか、安土城(滋賀県)や郡山城(奈良県)などの調査でも確認されているが、石垣の遺構がそもそも少ない。兵庫城について、神戸市教委は「信長の築城技術や勢力拡大の背景とともに、日本人の祖先崇拝の変遷を読み解く上でも貴重」として分析を進める。
(小川 晶)
【兵庫城】 兵庫津遺跡の一角から見つかった城跡。1580(天正8)年、織田信長の命を受けた家臣池田恒興(つねおき)が築城した。敵対する荒木村重が治めた花熊城(花隈城)を解体し建築資材に使ったという。
江戸時代は尼崎藩の支庁、幕府直轄領の出先機関として活用され、1868(明治元)年には最初の兵庫県庁が置かれたが、6年後に運河の開削で本丸の大半が姿を消した。これまでの発掘調査で、天守台跡とみられる石垣のほか、周辺で町屋群などが見つかっている。
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