遺体安置所で冷たくなった娘を抱いて寝た たった一度も希望を持てなかった25年間

兵庫県芦屋市から六甲山系を越えた神戸市北区鹿の子台。村田延子さん(72)は23年前に越してきた。震災前まで暮らした芦屋市津知町は壊滅的な被害に遭い、自宅は全壊。2階で一緒に寝ていた長女の恵子さん=享年(21)=が、たんすの下敷きになって亡くなった。

「いつか必ず芦屋に帰るんや」って、仮住まいのつもりでした。芦屋は恵子と生きた街。フラメンコのレッスンに通うために一緒に歩いた阪急芦屋川駅までの道、盆踊りを楽しんだ津知公園。今でも夢で見ます。こんなに帰りたいのにどうしようもない。

大学4年だった恵子さん。震災前夜に卒業論文を書き終えたばかりだった。

寝る前、病弱な私にマッサージをしてくれました。肩に触れる恵子の手が熱くて、「熱があるならいいよ」と断ったのに最後までやってくれて。

午前5時46分。激震で、恵子さんと延子さんは生き埋めになった。

「お母さん」って泣く恵子に、「疲れるから泣きやみなさい」って叱ったんです。すると、ぴたっと泣くのをやめて。私の言うことはいつも聞く子でした。怖いはずなのに。かわいそうなことをしました。

延子さんが夫の雅男さん(77)に救助された後、恵子さんが出された。

息をしていないと分かっていても、車いすの姿を想像したり、「ここで死なせてあげる方が楽かな」と思ったり。「これまでありがとう」と言えなかった。

その晩、延子さんは遺体安置所で冷たくなった恵子さんを抱いて寝た。

同じように幼い子を抱きしめて寝る女性もいました。友達からは「ニコニコ村田」って呼ばれ、家でもひまわりみたいな子でした。

一家は大阪府箕面市のマンションに避難。そこで、津知町での区画整理事業を知った。1年半後、今の鹿の子台に家を建てた。

芦屋の土地は手放さなければいつか戻れると思って、駐車場にしました。でも2、3年で終わると思っていた事業が、10年もかかるとは思いませんでした。

事業が完了したのは2005年2月。その2年後、延子さんが脳梗塞で倒れ、雅男さんには前立腺がんが見つかった。一昨年の12月、とうとう土地を売った。

病気になるまでは、苦しいことに出会う方が楽だった。恵子の苦しみを少しでも引き受けられると感じたから。最近は「ごめんね」と謝ることが増えました。

昨年9月、延子さんは脳梗塞を再発。ベッドで過ごす時間が増えた。芦屋も9年間、訪れていない。

苦しいけれど背負っていかないといけない。この25年間、たった一度も希望を持てなかった。希望が持てて初めて、復興と言えるんじゃないですか?

神戸新聞

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