【東日本大震災】漁師支え続けた妻 「31年間、ありがとな…」

■相馬市原釜 佐藤けい子さん=当時51=

「お父さん、お父さん、お父さん」

昨年3月11日、太平洋沖から押し寄せた真っ黒な波が相馬市原釜の主婦佐藤けい子さん=当時(51)=の自宅を押しつぶした。津波の様子を見に近所の三階建ての食堂に向かった夫の漁師弘行さん(56)は助けを求める妻の叫びを確かに聞いた。

水が引かず、どうすることもできない。弘行さんは食堂で一夜を過ごし、自宅に向かった。一階が崩れ、地面に二階が転がっていた。がれきをかき分けると妻が横たわっていた。「起きろ」。冷え切った顔をさすり、手を取って何度も名前を呼んだが、目を開けることはなかった。

傷一つなかった。そばにいれば助けられたかもしれない。「一緒にいてあげられなくてすまなかった」。悔しさは今も消えない。

けい子さんは相馬市の漁師の家に生まれ、相馬女(現相馬東)高を卒業した。物心ついたころから漁に出る父の背中と、それを支える母の姿を目にしてきた。

命を懸けて荒波に挑む両親を見て、「漁師のお嫁さんには絶対にならない」と宣言していたという。しかし、20歳で結婚相手に選んだのは漁師だった。

相馬の漁師の妻は、昼夜を問わず漁船が港に戻ってくる時間に夫を出迎え、水揚げされた魚を選別して競りにかける。夫は次の漁に備え、道具の手入れにいそしみ、競りには一切関わらない。

結婚当時、弘行さんは既に沖合底引き網漁船「宝精丸」の漁労長を務めていた。その妻は競りの現場で乗組員の妻たちの先頭に立たなければならなかった。

「乗組員の家庭を守らなければならない」。市場にはいつも、手際よく競りの準備を整えるけい子さんの姿があった。

平成15年、弘行さんが胃がんを患ったときは、時間の許す限り夫のそばについた。「頑張らなくていいからね」。「漁への意欲を失いかけていた。優しい言葉を掛けられたからこそ、奮起できた」と弘行さんは述懐する。

震災当日の午前5時、けい子さんは相馬市の松川浦漁港で夫を迎えた。大量のズワイガニやキンキを競りにかけた後、夫婦は自宅で体を休めていた。

地震の後、すぐに長男で消防士の泰弘さん(21)から電話があった。「かあさん大丈夫か」の問い掛けに、けい子さんは「家の中がちょっと壊れたけど心配いらない。あなたは自分の仕事を頑張りなさい」と気遣った。

その後、家の外に出たが、津波の兆しはなかった。様子を見に行く弘行さんを見送り、けい子さんは自宅に戻った。「大事な物を片付けておくから」。それが夫婦の最後の会話となった。

弘行さんが震災後に身を寄せた相馬市のアパート。居間には夫婦で笑顔を見せる写真が飾ってある。

2月12日、相馬市内で一周忌の法要を行った。自分を、息子を、乗組員を支え続けてくれた妻。伝えたいことはたくさんあるのに感謝の言葉しか見つからなかった。

「31年間、ありがとな…」

東日本大震災は県民1900人余の尊い命を奪い、200人余が行方不明のままだ。大津波や土砂崩れ、東京電力福島第一原発事故による避難生活…。

震災から1年を迎えようとする今も遺族の悲しみは消えず、幾多の苦難が県民に容赦なく降りかかっている。志半ばで散った人々の生きた証しを記し、悼む。

福島民報

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