【東日本大震災】酷寒の避難所 犠牲拡大

目の前に気仙沼湾を望む宮城県気仙沼市錦町の介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」。

東日本大震災の大津波は建物の2階まで押し寄せ、車いすの高齢者をのみ込んだ。生き残った人も寒さで次々に命を落とし、犠牲者は最終的に59人に上る。

避難訓練の想定を上回る津波に、なすすべもなかった職員たち。「私たちに何ができて、何ができなかったのか」と自問自答する。(丹野綾子)

◎59人死亡、気仙沼の老健

延焼を免れた気仙沼市の介護老人保健施設「リバーサイド春圃」は2011年3月12日朝、助かった高齢者86人を近くの鹿折中体育館に避難させる。

施設長の猪苗代盛光さん(63)をはじめ職員たちは3人がかりで車いすを抱え、膝上まである泥の中を進んだ。たどり着けば、生命の危険は遠のくはずだった避難所。しかし、そこには別の悲劇が待っていた。

やっとの思いで避難した体育館に寝具はなく、津波でぬれた服を着替えさせることもできなかった。底冷えが高齢者の体力を奪った。

体調の悪化したお年寄り以外は、車いすに座らせたままにせざるを得ない。職員2人が脇で倒れないように支えた。

「バターンと大きな音がするたび、お年寄りが倒れ、亡くなったことが分かった」。猪苗代さんが、その光景を思い起こして唇をかむ。

その後も1日に1人、2人と亡くなる人は相次ぎ、市立病院に救急搬送されてから死亡した人も含めると、12人が津波で助かった命を失った。

「避難所は介護が必要な高齢者を置いておける場所ではない」。猪苗代さんたちは、できるだけ高齢者を家族に引き取ってもらった。身寄りのないお年寄りら32人は、市内や隣の一関市の高齢者福祉施設に受け入れてもらった。

看護師の千田淑子さん(61)は「やっと温かい食事や布団のある場所に移せて、ほっとした」と目を潤ませて振り返る。

避難所に向かう前、千田さんらは三つの部屋のベッドに寝かせた46人の遺体の顔を、タオルで丁寧にぬぐった。

皆、口や鼻の中まで泥が入っている。目を開いたまま亡くなり、死後硬直で閉じられなくなった高齢者もいた。
「助けられなくてごめんなさい」。謝りながら涙が止まらなかった。

4月上旬、猪苗代さんは亡くなった高齢者の遺族の家を回り、震災時の状況を説明した。

「老健施設は在宅復帰を目指す場所なのに、遺体で家に帰すことになり心苦しい」とわびた。

津波で亡くなった84歳の女性の三女(56)は「遺体の顔は息苦しそうにゆがみ、かわいそうだった」と声を震わせる。

施設の責任を問う気持ちはない。「自分たちを責めないでほしい。亡くなった母の分まで、他のお年寄りを大切にしてほしい」と気遣う。

現在、リバーサイド春圃は市内の病院の2階を借り、13人の高齢者を預かっている。市内の施設が被災して在宅の高齢者が増えたこともあり、6月に訪問看護ステーションも開設した。

リバーサイドの再建を目指す猪苗代さんは「震災時に何ができて何ができなかったか、職員と話し合いたい」と言う。

痛感したのは、災害時の高齢者の避難環境が整っていなかったことだ。

環境への適応能力がない高齢者は精神的なバランスを崩し、認知症やうつ病になりやすい。精神面でのかかわりも重要になる。

「一日も早く高齢者が安心して暮らせる環境を整えたい」。それが亡くなった高齢者に報いることにもなると、猪苗代さんは考えている。

河北新報

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