私が熱くなる瞬間、それはやはり葬儀の瞬間。
誰の葬儀でも勿論全力を尽くすが、若くして亡くなった方の葬儀は特に熱が入る。
こんなことを言ってしまっては失礼と言われるかも知れないが、天寿を全うされた方の葬儀はある意味「お祭り」だ。
悲しいには違いないが、この世でのお勤めを十二分に果たし終えた方達。
「お疲れ様!有難う!」という素直な気持ちで、盛大に送り出してあげればいい。
ところが若くして亡くなられた人間はそうはいかない。
特に小さな子供の葬儀など、正直やっていられない。
大人用に比べて遥かに小さい柩。
同級生が柩に書いた「一緒に遊んでくれて有難う」なんていう寄せ書きなんか見せられた日には、マジメに家に帰りたくて仕方がなくなる。
涙を堪えて踏み留まるのに必死だ。
だがしかし、泣き言など言ってはいられない。
遺族を泣かせてあげることも、葬儀屋の大きな仕事のひとつだ。
どんなに辛くても、遺族は耐えようとしてしまう。それを「泣いても良いんだよ」という雰囲気を如何に作ってあげられるか?
これが遺族を泣かせてあげることに繋がる。
喜びは分かち合うことで2倍になる。悲しみは分かち合うことで半分になる。
釈迦は他人の「悲しみを分かち合う」ことの重要性を説いた。
※詳しくは関連記事をお読みいただきたい。
少しでもその悲しみを吐き出してもらい、みんなで思いの限り泣く。そうすることで会葬者に少しずつ悲しみを持って帰ってもらうのだ。
その為には出来るだけ多くの悲しみを吐き出させてあげなければならない。
それが悲しみのどん底にある遺族を救うことになる。
出来ることならば若い人、特に子供の葬儀などはあって欲しくない。
しかしながら、ひとたびこの世に生まれ出てたならば、地位・年齢・人種・・・あらゆる分類を超越した次元で、死は音もなく忍び寄ってくる。
ならばせめてもの手向けに、精一杯の葬儀をしてあげたい。
少しでも「良い葬儀にしてあげたい・・・少しでも・・・」
葬儀屋の中には滞織りなく葬儀が終わることが「良い葬儀」だと勘違いしている人間も多い。
勿論重要なことだが、はっきり言ってそんなことは二の次だ。
葬儀が終わって、遺族の悲しみがほんの少しでも軽くなっていることこそが、「良い葬儀」の絶対条件だ。
繰り返しになるが、誰の葬儀だろうと手を抜くことなどはしない。しかし、若い人の葬儀ともなれば、尚更その想いは強くなる。
今日の葬儀は遺族の悲しみを少しでも和らげて挙げることが出来たのか・・・?
日々そんな自問自答を繰り返しながら、今日も熱いも思いで葬儀の現場に立っている。
sougi-soushiki.beauty-box.tokyo